全羅北道群山(チョンラブクト・クンサン)は、周辺に広い平野が広がっており、韓国で最も大量の穀物が流通していた地域だ。復興と略奪のハブだったこの港町には、今もなお歴史の痕跡をたくさん残している。数々の事情が今でも色濃く残る群山には、急変する現代都市のスピード感への抵抗の余炎がくすぶっていた。
1900年代の開港初期、日本をはじめ多くの国の文物が群山港を経由して朝鮮半島に流入した。そのため、群山には今でも躍動感あふれる歴史の痕跡があちこちに残っている。悲しい歴史が立ち込める都市だが、最近は人気の高い観光スポットとして多くの人が訪れている。
韓国では、いろんなものが入り混ざっている状況を指してよく「チャンポンのようだ」と言う。野菜や海鮮物、肉類などをよく混ぜて炒め、煮出汁と一緒に煮込んだ真っ赤なチャンポン一杯には、中国や日本、韓国が混在している。チャンポンで有名な群山には、過去と現在の時間がまるでチャンポンのように程よく調和している。群山へ向かう途中、ふと熱々のチャンポンを思い出したのはごく当然のことだったかもしれない。
高速列車に乗って益山駅で降りて、群山行きの鈍行列車に乗り換えた時、妙な匂いが鼻に付いた。列車は外観の塗装が剥がれている古いタイプだったのだが、それはまるで重厚な時間が混在した匂いとでも言おうか、ガタガタきしみながら走る老朽車両内で、想像していたタイムマシーンに乗って重厚な空間に向き合ったような気分になった。
1909年に日本人僧侶が創建した「東国寺」は、現在、韓国に残っている唯一の日本式仏教寺院である。当時、日本から建築資材を運んできて建てられたこの寺は、今でも大雄殿をはじめほとんどの建物の原型がよく保存されている。外観は全体的に慎ましく素朴である。
1908年から1993年までの85年間、群山税関の本館として使われていたこの建物は、今は展示館として使われている。規模は小さいものの、国内にある西洋古典主義3大建築物の一つとして挙げられている国家指定の「近代文化遺産」である。
時間旅行(タイムトラベル)
それで私は、群山では真っ先に京岩洞(キョンアムドン)の線路村に立ち寄りたくなった。今や汽車は通っておらず、線路の周辺は時間が歩みを止めているかのようだ。村の中心を行き来していたあの汽車は、今は群山駅からある製紙工場まで木と紙を積んでゆっくりと走っている。ずいぶん前から運行が止まり、村の至るところに当時の時間が留まっていた。60~70年代風の学校の制服や、昔のおやつ、雑貨などが今でも残っている。最近は新型コロナで観光客の足が遠のき静けさだけが漂っていて、過去へとこんなにも簡単にタイムスリップするのが不思議で、私は線路に沿ってしばらく歩きながら時間を過ごした。揮発する時間の匂いが鼻先をかすめる。それは錆びた線路の木材や紙の匂いにとてもよく似ていた。
線路村から抜け出した私は、本格的に群山に耽る前に、まずチャンポンを食べに出かけた。ここには全国でも有名なチャンポン屋が何軒もある。私が選んだのは「ビンヘウォン」というチャンポン屋だ。70年の伝統を持つこの店は、なんとユネスコの世界遺産に登録されている建物の中にある。この店のメニューの中でも「青湯麺」は、辛いものが苦手な人でも負担なく食べられるチャンポンだ。一口食べたとたん、新鮮な魚介類がたっぷり入ったスープに癒されるような気がした。時間が濃縮されている味とはこういうものか。店のノスタルジックな雰囲気の中、癒しの食べ物で心が和らぐ。群山で嗅いだいろんな匂いの中で、最初の時間の匂いが紙だとしたら、二番目はチャンポンである。
群山は昔から全国で穀物が最も多く生産された、エネルギー溢れる都市だった。お腹を満たした私は、近代建築を一目で見渡すことができる近代化通りを訪ねて、そのエネルギーの過去のバージョンを体験してみることにした。
近代建築館と近代美術館、近代歴史博物館を一軒一軒見て回りながら、私は今でもそこにエネルギーが満ちているのが不思議だった。そして、歴史と歳月が残したものには固有の作品性まで宿っていることに気が付いた。時間の経過とともに色あせてしまったものが今でも美しく感じられるのはなぜだろうか。近代の風景を現在が共有するその光景は、まるでいくつかの次元と時間が混在した時空間の模型のようだった。時間に耐えたこの街のビンテージな変化からは、わずかに建築美も読み取ることができた。機能性だけを重視せず、美を追求した痕跡をかすかに垣間見たような気がする。
中でも、最もこぢんまりとした建築美が感じられたのは、旧群山税関の建物だった。群山には海へとつながる錦江が流れているのだが、周辺には船で運ぶ穀物を収めていた「漕倉」があった。高麗時代に造られた漕倉は、植民地時代には税穀納付用の物流センターとして利用されていた。当時、日本の穀物船積み専用窓口だったであろうこの建物の前に立つと、何となく複雑な思いになった。ドイツ人の設計で日本人が建築し、ベルギー産の赤いレンガを使っていて、窓はロマネスク様式、玄関はイギリス様式なのに日本建築様式の屋根で覆われている。さすが群山の代表的なチャンポンスタイルの建築物なのである。
群山地域で呉服店の経営で富を成し、府議会議員を務めた日本人の広津啓三郎が住んでいた家屋。1920年代に建てられた典型的な日本式武家屋敷で、原型が比較的よく保存されている。大きな庭と雄大な外観から当時の日本の富裕な上流階級の生活ぶりがうかがえる。
異質な調和
近代化通りからさほど遠くない所にある「東国寺」は、日本の植民地時代に建てられた日本式の寺院で、現在は韓国の寺院として使われている。一見して、かなり日本風のこの小さなお寺が不慣れに感じられた。まるで日本式のミニマリズムが反映されたかのように、飾りっ気のないダンディーな装いの大雄殿と、樹齢100年になる月明山麓の竹林のヘアスタイルがよくマッチしていてファッショナブルだった。同時に、自然ともよく調和をなしていてさほど反感を買うこともなかった。寺の庭には日本が韓国人女性を強制的に連れて行った蛮行を記憶するための「少女像」が立っていた。当時、日本人地主らはより大量のコメを手に入れるために群山の小作農たちを搾取した。迫害された小作農家は、耐え難い苦痛に立ち向かって激しく闘争した。ところが、あんなに荒々しい歴史を通り抜けてきた宗教施設の静かな境内で時間を過ごすうちに、皮肉にも私は妙な解放感を感じたのである。情けなくも過去の恨みさえ揮発してしまい、解脱に至ったとでもいうか。そのためか、この寺に昔のまま残っているものがチグハグどころか、むしろ調和しているとさえ感じたのである。
今や汽車が走らない京岩洞(キョンアムドン)の線路村周辺には、思い出に浸れる面白い食べ物や遊びどころが多い。最近は、群山でもネットフリックスのオリジナルドラマ『イカゲーム(Squid Game)』に出てきたダルゴナ(カルメ焼き)の人気が高い。
新興洞の日本風家屋を見た時もこれと似たような経験をした。ただ裕福な日本人が居住していた家にすぎないが、時間の波風に耐えた魅力的な場所である。小さな庭園と広い窓を持つ母屋が美しさを追い求める人間の心理をよく反映していた。近くの月明洞の路地の古い壁や狭い路地、錆びた鉄製の門もそうだった。歴史の激動期が過ぎ去った今でも存在しているその痕跡を見ながら、長い間そのまま残っているとは何なのか、その意味について考えた。宇宙が光の速度より速く膨張・変化しているなかで、変わらないものの静けさを見ていると深い安心感を感じる。
時間旅行の華やかさに酔いしれたまま、韓国で最も老舗のパン屋、李盛堂へ向かった。ここは韓国より先に西欧のパンの味に接した日本人向けに営業していたパン屋だったのだが、日本の敗戦後、韓国人が命脈を受け継いで今のパン屋として経営している。この店のヒット商品であるあんパンと野菜パンを実際に食べてみると、過去の味と現在の味が舌の上でチャンポンになった。パンでさえもタイムスリップの媒介になれるのが群山なのである。あまりパンが好きじゃない私でさえその場で何個も平らげてしまった。
群山の隅々には様々な歴史的時間が入り交ざっていた。滅びてしまった国、日本統治時代と独立後の近代、そして産業化で慌ただしかった現代。その時間の痕跡が古い町にそのまま混在している様子が独特な感銘を与えていた。
文学の記録
「何が国だ!国がこの俺に何をしてくれた?日本人から取り上げたあの土地はもともと俺のものだったんだ。俺の土地を何であいつらが売ろうとしてるんだ?国なんかクソ食らえだ!」
「じっと待っていりゃ国が何とかしてくれるだろう」
「もういい。俺は今日からまた国を失った百姓だ。畜生。国がありがたいことをしてくれりゃ、当然百姓も国を信頼して心を寄せるに決まってる。独立を言い訳に百姓の土地を奪い取って売り出すのが、何が国だ!」
チェ·マンシク(蔡萬植、1902-1950)の小説『水田の物語』(1946)の最後のシーンを現代語に変えたものである。チェ·マンシク文学館の前で彼の多くの作品の中でもとりわけこの一節がふと思い浮かんだのは、群山に着いた時からずっと私について回っていた群山独特の歴史性のせいだったのかもしれない。
チェ·マンシク文学館には、小説、戯曲、評論、随筆など彼が執筆した200本余りの作品が30年余り所蔵されていて、彼の作品世界を深く感じることができる。チェ·マンシクは群山生まれで、解放前後の世相を風刺的に表現する見事なスキルを持っていた。彼の代表作の一つである『水田の物語』は、朝鮮半島が朝鮮の土地だった時代、主人公の家族が当時の行政機関から東学運動(1894)に加担したという疑いをかけられ、「処罰されるか、それとも田んぼをあきらめるか」という選択を強いられるところから話が始まる。先祖が血の汗を流して少しずつ買い集めた水田を半分以上も取り上げられた主人公はひどく心を痛める。日本が朝鮮半島を占領した当時、彼は小作農の苦しい生活に疲れ果てて日本人に残りの土地も売ることになる。どうせ日本の敗戦後、いずれまた自分の土地を取り戻すことができると考えたのである。しかし解放後、独立政府が日本所有の財産を還収して売り出したため、二度と自分の土地を取り戻すことができなかったというストーリーである。
生涯自分のものを奪われるばかりの運命を生きてきた小説の主人公にとって、母国の独立は喜びではなかった。国らしい国を持ったことのないこの人物を通して、国が亡びる時期の過渡期的な混沌と、そこに暮らす人間が感じる悔しさと懐疑心をよく表現した作品である。チェ·マンシクが残した作品が群山の文化遺産として残ることができたのも、このように優れた作品性のためである。
また、チェ·マンシクは日本に同調した文学家の中でも、真摯に「反省」した珍しい人物でもある。彼は終戦後、小説『民族の罪人』(1948‐1949)を発表し、作品を通じて反省の意志をはっきりと表明した。そのような一段落があったからこそ、彼の文学作品は群山の近代遺産とともに葬り去られることなく、今日まで生き残っているのかもしれない。
群山の隅々には様々な層位の時間が入り交ざっていた。滅びてしまった国、日本統治時代と独立後の近代、そして産業化で慌ただしかった現代。その時間の痕跡が古い町にそのまま混在している様子が独特な感銘を与えていた。
群山駅へ戻る前に、70年間もホットクを売っているといわれる「中東ホットク」というお店に立ち寄った。清から渡ってきたと知られるホットクは、薄い小麦粉のパン生地の中にシナモン入りの黒砂糖やシロップを入れて焼き揚げた焼き菓子である。たいていは油で焼くが、この店ではかまどで焼いたものを販売している。私はホットクの脂っこくない甘みに程よく酔いしれて、再び現実に戻るために線路の方へと足を運んだ。歴史の中に残されたほんのりとした甘さ。それはまるで群山のような味だった。
過去と現在が線路に沿って続く光景は、いともたやすく現実感をぼかしてしまう。およそ2.5kmの長さの鉄道の両側に、古い家屋やお店が立ち並んでいる。観光客はここで学生時代の制服をレンタルして、線路に沿って歩きながら思い出を振り返る。
中心街では、美しい色彩の叙情的な壁画をよく目にする。有名な観光スポットに華やかなフォトゾーンが造成されていることもあるが、狭い路地裏に描かれている素朴な壁画も多い。
20世紀前半の韓国文学を代表する作家の一人、チェ·マンシク氏の人生と作品世界を振り返ることができるチェ·マンシク文学館には、展示室、資料室、視聴覚室、文学散策路、公園などが整っている。
2018年、国家指定の近代文化遺産に選定された「ビンヘウォン」は、チャンポンで有名な中華料理店である。昔ながらの趣のあるユニークな建物で、映画『10人の泥棒たち』をはじめ映画撮影のロケ地としても広く知られている。
油で焼かずにオーブンで焼く「中東ホットク」は、群山を代表する白もち麦に黒豆、黒米、黒ごまなどを加えたブラックフード禅食(僧侶の保存栄養食)のシロップ入り。香ばしくさっぱりした味だ。